小四の転機
小学四年生に上がったばかりの頃、私はまだ一人で過ごす時間がほとんどでした。
教室の中で、誰かと話すこともなく、ただ静かに時間が過ぎるのを待っている。そんな日々が続いていました。
周りでは当たり前のように会話があり、笑い声がありましたが、その輪の中に入ることはできませんでした。
話しかけたい気持ちは、ずっとありました。
けれど、声が出ない。
その状態は、相変わらず続いていました。
そんな中で、小学四年生の後半に入った頃、ひとつの出来事がありました。
あるクラスメイトが、私に話しかけてくれたのです。
それは、とても自然な一言でした。
特別な言葉ではなかったと思います。
それでも、その一言は、当時の私にとって大きな意味を持つものでした。
私は戸惑いながらも、その子と言葉を交わしました。
うまく話せていたのかは、正直よく覚えていません。
それでも、その日をきっかけに、少しずつ変化が生まれていきました。
少しずつ動き出した時間
その子とは、毎日のように一緒に下校するようになりました。
帰り道を並んで歩く時間は、私にとって安心できるものでした。
学校という場所の中では言葉が出にくくても、帰り道では少しだけ、心が緩んでいたように思います。
不思議なことに、一人と話せるようになると、ほんの少しずつですが、他のクラスメイトとも言葉を交わせるようになっていきました。
最初は短い返事だけ。
それでも、私にとっては大きな一歩でした。
やがて、放課後に一緒に遊ぶこともありました。
それまで、遠くから見ているだけだった光景の中に、自分がいる。
その事実は、とても嬉しく、どこか信じられないような感覚でもありました。
自分でもできるんだ!
止まっていた時間が、ゆっくりと動き出していく。
そんな感覚を、確かに感じていたのだと思います。
すぐに治るというものではない
ただ、それは完治したというわけではありませんでした。
場面緘黙の状態は、簡単に消えるものではなかったのです。
環境や状況が少し変わるだけで、また声が出なくなる。
そんな不安定さを、私は抱えたままでした。
小学五年生に上がったとき、私にとって大きな支えだったその子と、離れ離れになってしまいます。
その子は、一時的に転校してしまいました。
理由は詳しくは覚えていませんが、その事実だけは、はっきりと記憶に残っています。
また一人になるのではないか。
ハッキリとは覚えてませんが、当然そう不安に思っていただろうことは推測できます。
でも、実際はすぐに新しい友だちもでき、会話もかなりこなしていたと思います。
そして、ある事件が起きたのはその後です。
夏休みも終わり二学期になり、その子は戻ってきました。
再び同じクラスで過ごすことになったのです。
本来であれば、嬉しい出来事だったはずです。
実際、とても嬉しい気持ちでした。
それでも、その子を前にしたとき、私は言葉を失いました。
話しかけることが、できなかったのです。
無視しているわけではありませんでした。
話したい気持ちは、確かにありました。
それなのに、どうしても声が出ない。
頭の中では、言葉が浮かんでいました。
「久しぶり」「元気だった?」そんな簡単な言葉ですら、口にすることができませんでした。
私は、自分の至らなさを強く感じていました。
せっかくつながったものを、自分の手で壊してしまっているのではないか。
そんな思いが、胸の奥に重く残りました。
それでも残る温かさ
次の日、その子のほうから声をかけてくれました。
とても明るく、何事もなかったかのように。
私は笑顔で、それに答えました。
ちゃんとした返事ができていたのかは、今となってはわかりません。
ただ、その瞬間、救われたような気持ちになったことだけは覚えています。
その子が、私のことをどう思っていたのか。
あのとき、話しかけなかった私を、どう感じていたのか。
それは、今でもわかりません。
もしかしたら、何も気にしていなかったのかもしれません。
もしかしたら、少し寂しい思いをさせてしまったのかもしれません。
その答えを知ることは、もうできません。
それでも、私はその子に強い感謝の気持ちを持っています。
一生忘れないでしょう・・・
あのとき、声をかけてくれたこと。
積極的に、歩み寄ってくれたこと。
その一つひとつが、どれだけ私を支えてくれていたのか。
今思い返しても、命を救われた思いがするのです。
ふと、思い出すこと
時々、ふと思い出すことがあります。
あのとき優しくしてくれたあの子は、今どうしているのだろうか、と。
私のことを、覚えているのだろうか。
それとも、もう忘れてしまっているのだろうか。
答えはわかりません。
けれど、あの時間が確かにあったことだけは、消えることはありません。
言葉にできなかった思いも、つなげなかった関係も。
それでも、確かにそこにあった温かさは、今も心の中に残っています。
そしてその記憶は、今の私を形作り、支えてくれているストーリーとして、存在しているようにも感じるのです。
